ついに公開 武田信玄埋蔵金の実態


1.なぜ信玄の埋蔵金がキャンプ場にあるのか?

 この疑問に答えるためにはまず武田信玄の歴史的背景について書いておきます。

 永禄2年(1556年)信玄は今川に奪われた、富士西麓を取りもど事す成功した。 この地は豊富な金を産出する富士金山と後醍醐天皇以来分かれた南朝の本拠地があったからである。

 また信玄は水の研究でも有名で水で病気を治す事を発見し、病気別に水の分類まで行っていた。 そして信玄は富士高天原の秘密を知っており、そこの「神の水」を後の世に残すために隠してしまい、その証拠として埋蔵金を天の岩戸に入れ閉めたのです。 埋蔵を担当したのは信玄の姉の子の穴山梅雪で、その妻は信玄の娘−ともっとも信頼のあける武田一門です。 当時梅雪は信玄の「侍大将」として活躍しておりましたが、天正元年(1573年)には信玄が、そして10年後の天正10年(1582年)には梅雪も盗賊に討たれて死んでしまいました。 そして埋蔵の秘密は永遠に閉ざされてしまったのです。

 ところが、梅雪を討った盗賊の大将の諸澄九右門という男が、梅雪の懐から日記帳を奪い、埋蔵金の一部を持ち出す事に成功したのです。 (当時は辰の口の地図まであったようだ。) ところが天の岩戸を開くまでは彼も出来ず、約2/3の黄金は残したままとなってしまいました。そしてこの日記に記された3カ所の埋蔵地と埋蔵量についてと場所を特定させるための詩が残されたのです。

 この記録は大正時代になり諸澄家で再び発見され、それをもとに大正5年キャンプ場内の通称オオカミ穴で諸澄吉朗という男が埋蔵金の発見に至りました、この事は当地の地主の記憶にも残っており埋蔵は真実であることが解りました。 ところが吉朗氏はオオカミにかまれ狂犬病で死んでしまったのです。 そして再び岩戸に眠る黄金は忘れ去られたのです。 諸澄家に残っていた梅雪のメモを次に書いておきます。


本丸口
   まるどう    五十七ほん
   たけながし   三十九ほん
   こがね     九はい
戌の口    申三戌五十八
   まるどう    五十二ほん
   たけながし   三十八ほん
   こがね     五はい
辰の口    卯十己五
   まるどう    二十七ほん
   たけながし   二十五ほん
   こがね     四はい

隠し湯の湧きて流る窟穴を、
のぼりて指せや地蔵小坂、
朝日夕日月に照る、
岩打て岩打て地蔵もうて、
竹に千歳の色添えし、
梅が雪見の酒なりし、
千代八千代に栄えます、
黄金の口ぞ汝に聞かむ。


2.ついに私所有の秘文を公開します。(無断転用禁止)

 上の文の解説をします。

 まず最初の3つの「口」は3カ所の埋蔵を示すもので、本丸口は南朝の宮殿を意味していて、田貫湖付近です。
戌の口は本丸から見て戌の方角、つまり北西です。
辰の口は本丸から見て辰の方角、つまり南東です。
すなわち戌の口−本丸−辰の口と一線上にならぶ位置にあります。
キャンプ場のオオカミ穴はこの辰の口になります。−見れば確かに竜の口の形をしている。

 そしてその右の数字は地蔵から「打つ石」までの距離を意味します。 「卯十己五」は東に十間(18m)、南東に五間(9m)となりその位置には大きな三角形の岩があります。 これを打てというのです。(打つ場所は次の詩に示してあります) 次の数字は埋蔵量で「まるどう」は丸太状の金塊、「たけながし」は竹筒に流した金塊、「こがね」は樽に入った小つぶ金(100g前後)です。 辰の口が他に比べて少ないのは諸澄九右門が1/3を持ち出したからです。(諸澄氏が書き直した)

 次に詩の方を説明します。 これは三カ所に共通して使います。 (辰の口の解釈としては)
隠し湯の・・・ -> 隠してある泉の湧き出る穴から
のぼりて・・・ -> 小さな坂を登って地蔵を目指せ
朝日・・・   -> 夕日の照る位置を(辰の口の場合)
岩打て・・・  -> 岩のその場所を打ちなさい(夕日の方向から)
竹に・・・   -> 武田信玄は水で不老長寿を手にしたが、戦いで死んでしまった
梅が・・・   -> 梅雪も今の繁栄がいつまでつづくか分からない
千代に・・・  -> 人類が長く繁栄し、長生きします(水で)
黄金の口・・・ -> そのためにあなたの前に黄金の口が開かれます。(命の水を広めるためにこの黄金を使いなさい)

 すなわち埋蔵金は隠し湯の泉の水を世に知らせるためのものだったのです。 すでに宝は見つかっているのです。 尚、この宝の”泉水”は以前から持ち帰り自由の「西富士のミネラルウォーター」です。 現在、多数の方々から水で持病を治されたお礼が届いております。 フランスでは水で病気を治す施設を「テルマリズムセンター」と言い、医療施設として健康保険を適用されています。